#リカバリー #こころの病の回復の道 「 #管理 」と「 #主体性の放棄 」という構造的な問題

 私たち精神障害者のリカバリーへの道のりは、まず、長年にわたる外部からの「管理」と「主体性の放棄」という構造的な問題に直面することから始まります。

1.1 「がんばらないで」というメッセージが奪う主体性

私たち当事者は、お医者さんや専門職の人たちから、「がんばらないで」「症状が悪いのだから無理しないで」ということばかりを言われ続けます。


そうすると、そのうちに、まわりから許可されたことだけで満足するようになってしまうのです。この状態が続くと、「自分で判断すると間違うものだ」と思い込み、自分で判断することをやめ、あるいはそれを放棄してしまいます。


これは、周囲からの「あなたが考える必要はありません。私があなたの人生を決めてあげますから」というメッセージによって生じる状態です。


私たちは、夢を持っているのか誇大妄想を持っているのかを自分で決めることすら放棄してしまいます。何をするときも、一番近い人に止められてしまうためです。


近しい人から「がんばり過ぎたらだめなんだな…」と言われ続けることは、主体性を奪う要因の一つです。また、「まだ早い」と言われ続けた結果、心の中では「じゃあ、いつやるんだよ!?」と思いながら、いつの間にか年齢を重ねてしまうのです。


この主体性の放棄は、ある意味で「そのほうが楽だし、角(かど)も立ちません」という当事者側の選択でもあります。しかし、この放棄された決定と責任を再び獲得することこそが、リカバリーの始まりなのです。


1.2 リカバリーを阻害する「管理」と専門職の過剰な責任感

リカバリーの過程にある当事者にとって、最も遠いこと、そして最大の障壁となるのは、当事者を管理する態度です。リカバリーは「管理」からは生まれません。管理する態度は、当事者の主観的な価値を奪う行為であり、リカバリーを阻害していることになります。


専門職の中には、当事者の人生の責任まで引き受けてしまう人が多いのですが、当事者の側から見れば、「いったいなぜ管理する必要があるのでしょうか。人生の責任まで取ってほしいと誰がお願いしたのでしょうか」という疑問が生じます。この責任感が、結果的にリカバリーの必要条件を阻害する一因となります。


医師や専門職がリカバリーの過程にいる当事者へ伴走することは不可能ではありませんが、その時に最も大切なことは、本人の邪魔をしないことです。医師は「病気さえ治してくれれば、それ以外の医療行為ではないことはしないのがベスト」なのです。精神科医療は、それ以上の実力を発揮して介入すればするほど、リカバリーを阻害することにつながり、精神科医師がリカバリーを阻害している一因となっている現実があります。医師は、結果オーライな開き直りを持ち、あとの責任は患者に移譲する勇気を持つべきなのです。


1.3 長期入院がもたらす「管理されて当たり前」という景色

管理の象徴であり、主体性の剥奪の極端な例が、日本の精神科民間病院における超長期間の入院です。


当事者が自ら決めることや責任を取ることをやめさせられ、長い時間が経ってしまうと、リカバリーということがらに触れる機会もなく、ただ人生の絶頂期だったはずの時期を何もせずに過ごしてしまいます。そして、ずっと管理をされてあたりまえという景色を見せられながら、自分から動くということをやめてしまっている状態が生まれるのです。


長期入院の環境下では、医師や病院長が「本人の希望がないので、退院させることができない」と言ってしまうのは、管理の典型です。また、入院中の行動制限も問題です。拘束は、病棟を管理するのにやむを得ず行うもので、治療行為ではないにもかかわらず、「拘束フェチ」と噂されるような院長のテクニックにすぎない場合があると批判されています。当事者が「部屋を汚した」という理由でいきなり5点拘束をされた際、家族に拘束(縛るということ)の理解があるかを尋ねても、医師は「大丈夫です」と答えるだけで、何が大丈夫なのかは当事者には分かりませんでした。当事者は、この拘束は自分にとって暴力であり、たくさんの人に取り囲まれて何されるかわからないことが非常に怖かった、と語っています。


当事者が「私は拘束されていても、リカバリーの過程にいる当事者でした」と叫んだのは、このような主体性の喪失と管理の構造に対する、強い抵抗の表明なのです。


リカバリーとは、専門職が定める客観的な評価指標ではなく、当事者自身の内面的な価値と主体性の再構成によってのみ存在する、唯一無二の現象です。


2.1 パーソナルリカバリーの唯一性と客観的分類への批判

リカバリーとは、自分という人間がなぜいるのか、という問いに対する答えを見つける旅でもあります。それは、前の状態に戻ることではありません。


リカバリーとは、良い状態でも悪い状態でも紆余曲折のある、その人らしい生き方、そして希望を持って生きること、そのものです。


リカバリーは終わりのないストーリーであり、他人が評価できるものではなく、過程なのです。


私たち当事者の経験の語りこそが、エビデンスであると主張することは、当事者だけに許されることだとされています。リカバリーは、この自らの「語るべきストーリー」全体を合わせたものなのです。


専門職が用いるリカバリーの分類、特に「パーソナルリカバリー」「社会的リカバリー」「臨床的リカバリー」という分類には意味はありません。


なぜなら、当事者にとってはパーソナルリカバリーという事柄しかないからです。


リカバリーという言葉自体、精神科の医師や専門職が、精神疾患を医学的に治せなかったために、こねくりあげて造語しないといけなかったものではないか、と当事者は推測しています。


2.2 リカバリーを可能にする最小限の4原則

世界中の当事者同士で認められている、リカバリーの最小限の原則は以下の4点です。


特に、決定と責任は当事者自身が自分の人生の主導権を取り戻すという「政治的な力」の回復を意味します。


リカバリーの先任者(ロールモデル)は、他人の評価を捨て、人生がひっくり返る経験を通じて、自他同一だったものを自己同一にすることで、自分の幸せを見つけることができるようになります。


そのために、何はなくとも当事者の責任を取る態度を回復することが、リカバリーを優先させる医療や看護の前提となります。


2.3 リカバリーという言葉が消滅する社会の希求

当事者にとって、リカバリーは「自ら考え、選択し、責任を持つ」という、本来は当たり前のことです。この不自然な状態があるからこそ、「リカバリー」という言葉が必要とされているのです。


将来的には、リカバリーという言葉も不要になり、忘れされる時代が来ることを期待しています。そのためには、精神疾患が治癒する治療方法が発達すること、そして精神疾患に起因する社会的な不利益がなくなることが前提となります。


当事者は、将来的には「昔は、リカバリーとかよく言っていたものだねえ」と過去を振り返る時代が来ることを望んでいます。


リカバリーのプロセスにおいて、再発は「失敗」ではなく、主体的なチャレンジの証であり、人生の困難を自己責任で引き受けるという決意の現れです。


リカバリーの過程で再発はつきものです。当事者は、自分の価値に合わせて、自分で行動するチャレンジングな行為をしますが、他の人から見れば無謀なこともあるかもしれません。その結果、症状が悪くなったり、再発をしたりすることがあります。


受診のたびに主治医から再発防止を考える医療やメッセージを受け、周りの人からは「いろいろなことを止められ」ます。当事者はそのたびに「なんでリカバリーなんて言っていたのだろうか」と悩み、「私はだめな人間なんだろうか」と自分を責めてしまいがちです。


しかし、このようなメッセージは「よかれと思って」発せられていても、時代から遅れているのではないかと感じています。再発の可能性を否定しないで、チャレンジすることもリカバリーのプロセスの一つであり、リカバリーは症状が悪化してもOKなのだという認識が重要です。


3.2 精神病は「私という名の自然現象」であるという認識

再発や病状悪化を肯定的に受け入れる視点は、精神病を自然現象として捉える認識に基づいています。


当事者は、自身の病気を「体の病気」として捉え、「自分の体が思ったよりもコントロールの効かないもの」であることを自覚します。


社会的に見れば「自然に逆らった」行為とされる再発も、ある時期、無理をかけた結果であり、その無理すらも「私という名の自然現象の一つだった」と肯定できる時が来ます。


この自然現象に向き合い、観察し、付き合っていくことが、リカバリーの姿勢となります。


精神病は、大きな自然の中の小さな自然として生きている人間にとって、避けて通れたものではなく、起こる必要があったのだと本音で肯定できるようになるまでに、長い時間がかかるのです。


3.3 リカバリーは自分で決めた人生の責任を取る生き方

リカバリーは、これまでだれかが運転してくれる高級車の助手席に座ってぼんやりとしてきた状態から、自分で運転席に座って、ボロボロでもいいから自分の車を、自ら運転するようになること、つまり、自分で決めた人生の責任を自分で取らないといけないと考えられる時がくることです。


この責任とは、薬を飲むことを選択する自由だけでなく、薬を飲まないことを選択する自由も含みます。


当事者は、薬が「少量の毒(異物)」に対して体がどう反応するかを求める物質であると認識しており、薬を抜く際に生じる不安や焦り、頭痛、体の違和感などは、症状というよりも、体が慣れている毒をなくしたことによって起きる正常な反応であると捉えています。


また、ライフスタイルについても、精神保健業界(メンタル・ヘルス・ソサイエティ)がたとえば、「あなたの出身地がどこどこだからこれは選べない」というように、人に強制することができないように、「あなたは精神疾患をもっているから」と、ライフスタイルを人に強制することはしてはならないことです。


ライフスタイルとは、選択すること、責任を持つことであり、何を選ぶべきかは本人が決めるのです。


さらに、オーバードーズ(OD)や自傷行為といった、周りからは驚かれ、やめてほしいと思われる行為でさえ、当事者は生き残るために行っているのだろうと解釈されます。


これは、スマートフォンを片手に、検索をすることで、助けがないか求め、何とか自分で解決しようとしているという、人間の生きる力、すなわち主体性の現れであると認識されます。


リカバリーの過程は、このように主体的に「苦労を買ってでるような生き方」を辛いと思いながらもしたいという、当事者の強い意志によって支えられているのです


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